Discover

神様が「おわします」場所。 -神社を「心の拠り所」に-

神域を示す鳥居をくぐる。
足を踏み出すごとに響く、
参道に敷かれた玉砂利の音。

静まっていく心を確かめ、
ゆっくりと息を吸う。
うっそうと生い茂る木々たちは、
少しずつ五感をなだめ、
感性を開かせる。

静けさの中で
そっと目を閉じてみると、
日常では感じ得られない
「神々の気配」が伝わってくる。

人間は生きていれば、さまざまな出来事に直面します。
我が身に起こったことを呪い、未来のことは考えられず、そして信じられなくなる。
そんな時、神社に来てほしいのです。
家族や友人・知人を頼るように、神社を「心の拠り所」にしてください。

日本では古来、神様に頼りながら共に生活をしていました。 江戸時代の国学者本居宣長は、「神」このように定義します。

「さて凡て迦微(かみ)とは、古御典(いにしえのみふ)等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり」

〔本居宣長 『古事記伝』三之巻〕

つまり「人間、動植物、自然などを問わず、人智を並外れた力を持ち、畏敬の念を感じさせるものはすべて神である」と考えたわけです。 そうして神さまを畏れ敬い、神さまへの感謝と加護を続けてきました。
神さまは感謝の念を持ち、必死に生きている人を見守ってくれます。 だから心が折れそうなとき、苦しいときには「神頼み」で良いと思います。 ご自身の内なる神さまが励ましてくれるはずです。
また、神社は失せてしまった「気(エネルギー)」をためる“充電スポット”でもあります。
忙しい日々を送っているといつの間にか気力が湧かなくなり、何をするにしても億劫になってしまうこともあるでしょう。 そんな時でも、一歩外に足を踏み出すことができそうなら、神社を訪れてみてください。 鎮守の杜に響く自然の音に耳を傾けていると、気がたまる。 自分があるべき定位置に戻ってきたような感覚を得られると思います。

身の回りのさまざまな事物を依代として現れる神さまですが、目に見えるわけではありません。 もちろん、実在していた人物を神格化していることはあります。 しかし、そういった場合でも、神さまの具体的な姿形が見えるわけではありません。
神社という場所は、何かが「おわします」感覚を与えてくれます。 神道には、教派神道として発達したものを除いては、開祖や教祖がいるわけでもなく、確固たる教義や経典もありません。 誰かに教わって理解したり、神さまの姿を実際に見たりするのではなく、「感じる」ことが大切なのです。

一人ひとり感じられる神さまは違います。 そして、神道はお互いの生活を理解し尊重し合いながら、平穏無事に、そして創造的な暮らしへと導くことを役割としています。
だからこそ、神社は他の神さまや宗教を拒みません。 さまざまな願いを込めて特別な御利益を求め、お守りをたくさん所有したとしても、神さまが怒ることはありません。どうぞ安心して、神社にいらしてください。

History

赤城神社は、山岳信仰からはじまったと言われています。赤城山はときにカミナリの権現地として、神さまが鳴らす「神鳴り」と畏れられてきました。 一方で、稲妻は大地を豊かにし水の恵みとともに豊作をもたらす存在でもあり、いにしえの人々は赤城山そのものを信仰の対象として、畏れ敬ってきました。古代の人々は、祭祀の度に樹木や岩石に神霊を招き寄せ、あるいは神霊が宿るとされる森や山をそのまま神さまの御霊の宿る御霊代として、祭りを行っていたと知られています。 赤城の地においては、神さまの座にふさわしい神聖な場所として「櫃石」(ルビ:ひついし)を見出し、祭りの際に神を招き奉りました。 赤城神社が現在の位置に社としてあるのも、この原始的祭壇の所在地と密接な関係があるのではないかと思われます。

農業の神様

現在、赤城神社は赤城山南麓・前橋市三夜沢町、標高約570m。 拝殿からは富士の霊峰を望む、約2万坪の境内に鎮座しています。赤城神社の名が歴史書に見えはじめたのは、今からおよそ1200年前の承和6年(839年)のことです。 この時に、従五位下の神位を授けられているので、それ以前に既に祈年祭で国家から幣帛(捧げ物)を受けた神社——官社となっていました。 官社は延長5(927)年に撰上された『延喜式』の神名帳(ルビ:しんめいちょう)に記載され、後世の社格の基礎となりました。 『延喜式』では、赤城神社は名神、大社として評価され、後に正一位の神位を得ています。このように赤城神社が古くから評価を受けていたのは、古群馬県全体を支配していた上毛野君という一族を祀っていたからです。 上毛野君は豊城入彦命の子孫とされ、東国や東北地方を治めていました。 『日本書紀』によれば、氏族の基地である上毛野国に「赤城神」を祀りました。赤城神の起源は、他の山々を後に従えた「赤城山の神」。そして、小沼からの水が流れ込む粕川が灌漑に利用されたことから「農業の神」だと考えられます。

いにしえの時代からの歴史

戦国時代になると粗川上流の神社が現在の三夜沢の地に遷りました。 これを「西の宮」と呼び、元三夜沢の地である粗川上流の神社は「東の宮」と呼ばれるようになりました。 「西の宮」では、大沼や小沼の神を祀り、「東の宮」では赤城山の神さまを祀っていたと考えられます。同時代には武将の信仰はあつく、上杉・北条・武田の三氏をはじめ、由良・長野・大胡・牧野など国内の諸武士からの寄進状などが多数残されています。 また武将たちによる分祀も盛んに行われていました。 上野国赤城山南麓で勢力を持った大胡氏は自らが治める大胡地区に、次いで江戸に戻ると牛込の地に赤城神社を分祀しています。現在の社殿は明治2年、社殿は東の宮跡地に東西両宮を併せ造営され、一社となりました。さらに赤城神社があるのは三夜沢の地だけではありません。 分社は関東平野の全域から新潟、福島、宮城の諸県に及んでいます。現在存続している神社のみで、群馬県118・埼玉23・栃木9・茨城10・新潟13・福島11・その他を合わせると191社、合併または廃社を合わせると計334社に達します。このように赤城神社はいにしえの時代からの歴史の積み重ねのもと今の姿があります。

変わらないために、変わり続ける。

暮らしとともに

人々の暮らしや、神さまに対する考え方や関わり方……。神社を取り巻く環境は、時代とともに変化してきました。いにしえより神社は、人々の暮らしとともにありました。 神さまを祀る集団(氏子)が除々に形成され、その集団の精神的中心をなすものとして神社が祀られるようになりました。 伝導や布教を行う宗教のように神社が建立されて、それを信仰する人々が集まってきた、というわけではないのです。

浄明正直

だからこそ、人々の暮らしのあり方が変わったのなら、神社のあり方も変わっていかなければなりません。しかし、「神社」であるためには「変えてはならない」こともまた多くあります。
古代より日本人は、神々を丁重に祀ってきました。「浄明正直(じょうめいしょうちょく)」という古代の宣命に記されるように、日本の神さまは「穢」を嫌い、清浄を尊ぶことで知られています。 神々を祀る神域が清浄さに欠け、私利私欲に満ちた穢れの空間になってしまったら、神々の居心地が悪くなり、神さまは神社から離れてしまいます。

いにしえより、先人から受け継がれてきたこの「神々のおわすところ」。この先ずっと、神さまのために居心地がいい神社として“変わわらぬよう”、“変わりつづける”ことが重要で、そして後世へとしっかり残していかなければなりません。